Quantcast
Channel: 【モーターファン・イラストレーテッド 公式ブログ】
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1506

それぞれの『風立ちぬ』

$
0
0

今日は8月15日、終戦記念日です。
いま、巷では零戦の設計者である堀越二郎さんをモデルとした『風立ちぬ』というアニメ映画が話題ですが、戦後の日本の自動車業界は、こうした航空機技術者の方々を抜きに語れない部分が少なくありません。そこで簡単ながらまとめてみました。文字だらけで申し訳ありません。

・中島飛行機で20歳代で航空機用エンジン「誉(ハ45)」の設計主任を務めた若き技師がいました。その技師の名を中川良一さんと言います。戦後、富士精密工業を経てプリンス自動車工業の設計部長を務め、日産自動車のGR8型やS20型、GRX-3型といったエンジンの設計に携わって同社のレーシングエンジンの伝説を打ち立て、後に同社専務を務められることになります。

・同じく中島飛行機で、中川技師と共に「誉(ハ45)」エンジンの設計と改良に携わっていた20歳代の若き海軍技術大尉がいました。この技術大尉の名を百瀬晋六さんと言います。戦後は富士重工で、日本初の国民車であるスバル360を世に送り出し、また、世界で初めてダブル・オフセット・ジョイント(等速ジョイント)を実用化して前輪駆動の欠点を克服したスバル1000を送り出し、現在のスバル車の基本形を作られました。後に富士重工取締役となられます。

・陸軍航空技術研究所に、中島飛行機の技師から徴兵された20歳代の若い陸軍技術中尉がいました。同所でH型液冷24気筒エンジンの設計などに携わったり、中川技師の「誉(ハ45)」エンジンの熟成に立ち会った後、北九州を爆撃したアメリカの正体不明の爆撃機の調査を命じられたこの技術中尉は、撃墜されたその残骸を精細に調査して詳細な報告書にまとめ上げ、正体不明の爆撃機が最新鋭のボーイングB29であることを看破すると同時に日米の基礎技術力の絶望的なまでの差に驚愕、日本の敗戦を確信します。
また、この技術中尉は技術者として、当時、計画されていた超大型6発爆撃機「富嶽」に搭載する予定の空冷36気筒エンジンの構想や室内予圧用過給器の開発に携わり、さらに石川島芝浦タービン(現在のIHI)で進められていたネ130ジェット・エンジンの開発に従事しました。この技術中尉の名前を中村良夫さんと言います。
戦後、日本内燃機(現在の日産工機)を経て、当時、二輪車生産台数日本一を達成していた本田技研工業に入社。軽自動車の開発責任者となってT360やS500の開発に携わった一方、ホンダのいわゆる第一期F1活動においてチーム監督をつとめ、ホンダのF1における初勝利を飾りました。後に同社常務となられます。
MFiの前身である『モーターファン』誌では亡くなられるまで連載を続けていただき、「私が死んだら掲載するように」という遺言的な原稿もいただきました。MFiにとっては、その創刊をお見せすることが出来ず、たいへん残念な方のお一人です。

・立川飛行機で20歳代で高高度戦闘機「キ-94Ⅱ」の設計主務を務め、その完成に執念を燃やしていた若き技師は、終戦の日を過ぎてもなお完成間近の試作機の傍から離れず、無理やり引き離されるまで作業を続けていたと言います。この機体の設計に際し、若き技師は独自に主翼を設計、自らの頭文字を名称に冠した「TH翼」をもって航空史にその名を残します。その技師の名前を長谷川龍雄さんと言います。
戦後、飛行機を奪われて目的を見失っていた時、知人の勧めでトヨタ自動車に入社され、初代パブリカの開発に携わった後に初代カローラの開発主査となって日本の大衆車の道を拓き、その一方で開発主査としてスポーツ心あふれるトヨタスポーツ800や初代セリカを世に送り出しました。現在でもトヨタ自動車に伝えられる主査の心得を記した「主査10か条」を著し、後に同社専務取締役となられます。

・30歳代で海軍航空技術廠(空技廠)の飛行部設計課設計主任を務め、艦上爆撃機「彗星」の設計主務者や陸上爆撃機「銀河」の開発主務者となった海軍技術中佐がいました。その海軍技術中佐の名を山名正夫さんと言います。戦後、オカムラが作った日本初のトルコン式AT車「ミカサ」のトルコンを設計されます。また、東京大学や明治大学の教授を務められ、日本の航空工学史にその名を残されています。

・東京湾での海釣りを趣味とする発明家にして会社社長がいました。この発明家は海釣りの際に鰹鳥(カツオドリ)とイカを観察するうちに興味を抱き、鰹鳥の形にイカのジェット推進を組み合わせた飛行機、つまり無尾翼ジェット機を構想します。
この発明家は実際に日本初の無尾翼機(グライダー)を作りますが、その設計にあたったのが『風立ちぬ』の堀越二郎さんと一高時代から東京帝大工学部航空学科の同期であった木村秀政さんでした。
この無尾翼グライダーは3型まで製作されていずれも飛行、レシプロエンジンを装備した4型は製作されることなく終わってしまいますが、戦時中、非常に先進的なラムジェットエンジン装備の無尾翼戦闘機「かつをどり」が構想されました。また、この発明家の会社では、日本で唯一実戦配備されたオートジャイロ(回転翼機)であるカ号観測機を製造していました。
この発明家の会社では、部品はともかく、実は戦闘機や爆撃機などの武器そのものを製造することはありませんでした。「かつをどり」さえも現在残されている簡単な図面から見る限り武装できないようです。どうやら「飛行機を作りたいので、時節柄、戦闘機ということにした」もののように見えます。
これはひょっとすると、この発明家がミッションスクールである東北学院(現・東北学院大学)の出身者であったことが関係しているかもしれません。また、戦争末期、軍部の命令で同校に廃校命令が出された時、この発明家は同校を「航空技術学校」に転換するという名目を立てて軍部を説得し、廃校を回避したというエピソードが残されています。「かつをどり」はこの時期に軍に提案されていますので、廃校回避の方便とも考えられますが、その真相は不明です。
この発明家の名前を萱場資郎さん、会社の名前を萱場製作所と言います。
航空機用油圧緩衝脚の製作などを手掛けていたことから、戦後、この会社はショックアブソーバーの製造をはじめ、世界的な企業として知られるようになります。そう、現在のKYB株式会社(カヤバ工業株式会社)です。


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1506

Trending Articles